自己紹介~ゆうじについて

※こちらの記事は、徐々に書き足していきます。

はじめまして!ゆうじです。

自己紹介を簡単にさせていただきます。

どういう人物かというと、

目次

サラリーマン卒業を本気で目指しているサラリーマン

  • 2013年から副業で物販を開始して、昨年2020年は年商1億円、利益で2000万円を達成。
  • 普段は機械系のエンジニアとして勤務している40代のサラリーマン。
  • サラリーマンの年収は約650万円。
  • 2年前に個人事業を法人化して、社長は妻になってもらった。
  • 過去にはレーシングドライバーとして、海外レースにも参戦しいた。
  • 物販で稼ぎ、利益を不動産等の資産に変えて収益の安定化を目指している。
  • 高齢になってきた親に、早く親孝行がしたい。
  • 現在、業務の外注化を進めており、サラリーマン卒業に向けて準備中。

副業実績

下記がこれまで副業の物販で売り上げた売上実績です。

2013年 年商 250万円
2014年 年商 680万円
2015年 年商 850万円
2016年 年商 1,090万円
2017年 年商 1,450万円
2018年 年商 1,090万円
2019年 年商 2,480万円(法人化)
2020年 年商 1億1,030万円
2021年 年商 9,000万円

  2020年の楽天の最高月収は下記です。(楽天の管理画面より)

これまでの歩み

  • 幼少~大学生

昔から、サラリーマンで終わるつもりはなく、独立志向は強かったように思います。

小学生の時から、親は私に公務員を進めてきましたね。
私は、当時、公務員やサラリーマンにはなりたくないと思っていたのを覚えています。

何故だか分からないのですが、とにかく人と同じことをするのは嫌いでした。

中学生になると、F1を見たのをきっかけにレーシングドライバーに憧れるようになりました。

でも、当時はまだインターネットも無かったですし、レーシングドライバーになるために情報は殆どなく、とにかく自動車のことだけでも勉強しておこうと、自動車工学が学べる大学に進学しました。

大学生になると、とにかく本屋さんに通い、レース関係の雑誌を読みあさりました。

運よく、大学にある本屋さんに『FJ1600レース入門』という雑誌を見つけ、どうやら相当なお金が必要らしいということで、そこからレースを開始するために、お金を貯め始めました。

大学時代は、土方、コカコーラの配達助手、瓦屋さんで屋根ふきなど、とにかく肉体労働のアルバイトでお金を貯めて、大学2年生で20歳の時にまずは中古車のAE101レビン(当時90万円くらいだったかな?)を購入しました。

20歳というと、現在F1で活躍している角田裕樹選手なんかは、20歳ですものね。

その年齢の時に、ようやく車を購入するという、今考えれば、とっても遅いスタートでしたね(笑)

その車でレースに出るのではなく、とにかく一番近いサーキットに行って、FJ1600というF1の登竜門であるレースを見に行きました。

・就職後~レース活動~

大学を卒業して、機械系エンジニアとして、東証1部上場企業に就職しました。

就職後は、2年間レース資金を貯めるためにとにかく働きました。

残業は、月に100時間を超えることもありましたが、とにかく我慢して働きました。

2年間、レース資金を貯めた後、とあるレーシングチームのオーディションを受けました。

カートのサーキットで、チームが用意してくれた大学時代にレースを見に行ったFJ1600というマシンに乗り込み、とにかく必死にドライブしました。

レーシングカーに乗り込むのはこの時初めてでしたが、50名くらいのなかから数名に選ばれることができ、面接試験もクリアしてオーデョションに合格することができました。

このチームは、FJ1600でも毎年チャンピオンを輩出しているトップチームだったので、まさかレーシングカーを初めて運転した自分が合格できたことに自分自身も大変驚きました。
何事も行動してみないと分からないものですね。

合格後は、1年半くらいサーキットで練習を繰り返し、チームからレースデビューの許可でて、レースデビューを果たすことができました。

レースデビュー前のチーム内模擬レースでは、後に日本で一番早いレースのスーパーフォーミュラでチャンピオンになったドライバーに次ぎ、2位を獲得しました。
雨のレースで、1度コースアウトしてしまったので、結構離されてしまいましたが。。

この時はすでに26歳になっていました。

デビュー戦は予選2位、決勝4位でした。
デビューイヤーは、ポールポジション(予選1位)2回、優勝1回を含む、入賞多数で、シリーズ3位でした。
2年目は、優勝こそできませんでしたが、FJ1600の日本一決定戦で5位を獲得できました。

FJ1600である程度結果を残せたので、3年目は海外のレースのフォーミュラルノーにチャレンジしました。
こちらは、ぶっつけ本番でレースに臨んだわけですが、数回入賞を果たすことができました。

サラリーマンをやりながらの海外レース参戦で、資金的にもFJ1600の比ではなく、継続することが困難になり、残念ながらこれでレース活動を終えることになりました。

最初はぶっつけ本番でしたが、雨の走行では全体で3番手タイムを出すなど、マシンにも徐々に慣れてきていたので、とても悔しい思いをしました。

しかし、レース活動を継続するには、もっとスポンサーを募る必要があり、どうしてもそこをクリアすることができませんでした。

FJ1600の2年目のレースを終え、所属チームと来年の交渉を行っていた際、

私よりも知名度的にも、スポンサー的にも余裕のある他チームのドライバーがチームを訪れ、

「ゆうじ、どけ!」

と言われ、それで突然交渉が終わってしまったこともあります。

レース活動を通じて、資金力の大切さを嫌というほど体験することになりました。

FJ1600である程度結果を残すことができたので、3年目は20代後半であった年齢的なことも考え、ステップアップを果たし、海外レースのフォーミュラルノーに参戦することにしました。

フォーミュラルノーは、元F1ドライバーの片山右京さんも参戦していたレースで、キミライコネンなんかは、フォーミュラルノーからF1にステップアップしたくらいの本格的なフォーミュラレースです。

サラリーマンをやりながら、海外レースに本格的に参戦するというのは、普通の感覚ではあり得ないと思いますが、これも好きなことだからこそ、チャレンジできたのだと思います。

私以外にも、2名の日本人ドライバーがいましたが、彼らは当然サラリーマンではありませんでした。

海外レースといっても、サラリーマンである以上、仕事はきっちりこなした上での参戦です。

他のドライバーは水曜日にはサーキット入りして、練習走行を行っていました。

私は、残業をしてなんとか仕事をこなし、木曜日からお休みをいただき、木曜日にサーキット入りするのが精一杯でした。

初めて海外レースに参戦した際には、午前10時の便で成田を出発し、サーキットに夕方なんとか到着して、最後の30分の走行枠に間に合いました。

ですが、初めて乗るマシンのエンジンがかからず、なんとか押し掛けでエンジンを始動し、4周だけ走行できた感じでしたね。

海外レースはとにかくお金がかかりました。

海外への渡航費用、宿泊費用、メンテナンス費用、マシンのレンタル費用、タイヤ等の消耗品費用、それまで参戦していたFJ1600とは桁違いでした。

シーズン当初からは参戦できませんでしたので、シーズン途中から3戦ほど参戦したのですが、当時、1戦あたり100万円以上はかかったと思います。

これは、クラッシュ無しの金額なので、クラッシュすればもっと費用はかかります。

実は、4戦目のマカオGPにもエントリーしていたのですが、参戦資金がギリギリの状態でしたので、断念しました。

マカオGPは市街地コースで、少しでもコースから外れてしまうとすぐにウォールにクラッシュしてしまいますし、とにかく事故の多いレースとして知られています。

良く聞かされていたのは、もしクラッシュすると、現地のチームはとにかく修理代を確保できるまでドライバーを拘束するということでした。

修理代を払ってもらえる保証を得ないと帰国させないということです。

車両は1000万円以上しますので、もし、全損したことを考えるととてもサラリーマンに支払える金額ではありません。

サラリーマンである私は、クラッシュして拘束されれば、当然ですが帰国できずに出社することができません。

そういったことを考えると、泣く泣く断念せざるを得ませんでした。

ここでも、資金力という壁とサラリーマンの限界を嫌という味わいました。

海外レース参戦後は、日本で来季のレース参戦に向けて、スポンサー活動を行いました。

サラリーマンをやりながらだと、参戦継続は難しいと判断し、私は一旦サラリーマンを辞める決断をし、実際に辞めました。

サラリーマンの収入では、ステップアップを考えた場合、全く成り立たないので、当時はこれしか方法がありませんでした。

この時は年齢も28歳になっていましたので、今考えれば無謀な挑戦であったとは思いますが、自分としてはラストチャンスと思い、精一杯活動をしました。

いろんな企業にアポイントを取って、作成したレース参戦企画書を持って企業を訪問し、話を聞いてもらいました。

普通に活動していても、なかなか結果が見込めないので、地元方々にも協力を得ようと、市長を訪問して、実際に今住んでいる市の市長にも会い、また、地元の市長にも直接会いました。

それがきっかけで、地元のケーブルテレビなんかにも何度か出演したりもしましたが、スポンサーには全く繋がりませんでした。

また、中小企業から、一部上場企業まで、自分の持っている人脈も駆使して、活動しましたが、それでもスポンサーを得ることはできませんでした。

唯一、スポンサーに名乗り出てくれたのは、元々勤務していた会社でした。

ですが、高額なレース参戦費用を賄うには、それだけでは全然足りませんでした。

実は、国内レースへ参戦していた際には、勤務していた会社からスポンサーをしてもらっていました。

もちろん、全額ではありませんが、所属チームからはこのカテゴリーでこれだけのスポンサーを付けるのは凄いと言われました。

ただ、ステップアップをするには、その20倍の費用が必要でした。

結局、本格的なレース参戦はここで断念することになり、勤務していた会社からのスポンサー料も、参戦が叶わなかったことをお詫びして、全額返却しました。

レース活動を通じて、本当にいろんなことを学んだと思います。

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